1923

1923 – 1930

世界征服

オートクチュールが台頭し、ポール・ポワレが女性をコルセットから解放し、カルティエが初めて女性用の腕時計を発表しました。これらは新しいラグジュアリーのコンセプトに取り入れられ、旅行、大型客船、スポーツ、有名ホテルなどの「素晴らしい雰囲気」に溶け込む一連のコードを生み出しました。 パリは偉大なバロックのフレスコを引き寄せていました。芸術家たちやロシアの王子たち、贅沢なマハラジャたちとモード界の人間やアバンギャルドな文学者、画家、ダンサーたちが入り乱れていました。 2つの大戦の間に見られた狂乱の時代は、狂ったようなお祭り騒ぎの雰囲気で満ち溢れ、女性たちはロシアバレエや千夜一夜物語に夢中になっていました。モーブッサンが使用した東洋産のヒスイや漆、中東産の蝶貝やパール、サンゴ、ラピス、インドで採掘されたカラーストーンといった素材には、このエギゾティズムの香りが反映されています。

これらのエギゾティックな発見から誕生した熱狂や情熱が、アール・デコスタイルの台頭を促しました。純粋なパリの産物であるこのスタイルにメゾンはすべてを費やし、大きな成功を収めたのです。1924年、モーブッサンはニューヨークで開かれたフランス展でグランプリを、そして1925年にパリで開かれた装飾芸術展で金メダルを獲得します。また、その素晴らしい創造性は、1929年にパリで開かれたガリエラ展や1931年の植民地博で評価されました。

これらはすべて、新しい「現代的な」動きを探求するモーブッサンの積極的な姿勢を評価したものでしょう。それらは装飾芸術全てにおいて、審美的な同一性を取り除き、素材を強く印象付け、コントラストを際立たせ、スタイリッシュなモチーフを追求するというものです。

モーブッサンは、宝飾品と一緒に身につけられるオートクチュールのモデルともなるヴォーグ、ハーパーズ バザー、オフィシエルといったラグジュアリー誌を通じて女性たちを惹きつけました。ルシアン・ルロンのドレスとモーブッサンのジュエリーはしばしば組み合わされ、撮影はホーストやジョージ・ホイニンゲン=ヒューンといった有名で才能豊かな写真家たちによって行われました。そのため、モーブッサンのジュエリーは、非常に大きなスケールの芸術性から、世界を巡ることになるのです。

1928年、ニューヨーク、ロンドン、ブエノスアイレスに支店がオープンします。その責務を担ったのが、ジョルジュの息子ピエール・モーブッサン氏でした。その幅広い才能は、航空力学といった異なる分野にも発揮されます。自動車の車体デザイナーや航空機エンジニアでもある彼は、有名なフランスの偵察機フーガ・マジステールの発明者でもありました。

コメントは受け付けていません。